当たり前の一打

 麻雀、つかんだ。何をどうすれば良いか、はっきりして来た。のでそれをメモっておきたい。これからつれづれなるままにつづる事柄は、そのまま人生格言ともなる事だろうよ。


 要は当たり前の事を当たり前にやる、という事である。しかし当たり前の事が何か、という所が難しくて、そしてそこが面白さでもあるわけだ。


 過去にしろ、未来にしろ、全く同じ状況というのは決して存在しない。常に毎度毎度、時にわかりやすく、時に微妙に、形を変え、意味を変え、ふりかかってくる。それに対し、どれだけ当たり前の対応をする事が出来るか合戦、これが自分にとっての麻雀というゲームである。


 自分の進行具合と相手の進行具合。相手の三人の捨てる牌から、大体の手の予測、そこから導き出せる山の予測。点数状況。自分の今回の手の点数、最小点最大点。そして相手の手の大体の点数予測、調子、ツキ具合。行くべきか行かぬべきかシュドゥアイステイオアシュドゥアイゴー等々、それこそキリの無い森羅万象から、当たり前を導き出す。もちろん完璧になんて出来るわけが無くて、だからこそ面白い。


 具体的な話。例えばヤクハイが2枚(トイツ)ありました。これをどうするか、どう考えるか。初心者の場合は、それを鳴く事、もしくはつもる事で、とにかく3枚にする事しか考えない。


 しかしヤクハイ2枚なんてものは場合によってはクズ2枚みたいなもので、ヤクハイ2枚があった所で、他にホンイツやドラ等がなければ、得が無い。よってそんな得が薄い時はヤクハイはまず鳴かない。2枚目も出されて無くなったら安全牌として捉える。ピンフタンヤオが狙える手になったら迷わず切る。その際は1枚も出されて無くても切る。と、こういう対応が、ヤクハイ2枚というものに対する得な考え方というものである。


 この「得」という事を考えて打つのが、一番間違いが無い。あらゆる場合において。安い手をがんばってあがる事は損である。相手の高そうな手に自分の安い手で向かって行って振り込むのは損である。そんな事は言葉にすると当たり前の事なのだが、実際にはそこがなかなか出来ない。初心者と中級者の分かれ目はここにある。


 たとえば、早いテンパイが入った、でも安いし、それほど高くなる見込みも無い、という状況の時には、ならリーチ、とリーチをかけてしまうのが普通である。リーチには一発や裏ドラというラッキーボーナス要素があるからだ。


 リーチをかけるのは当たり前の事かもしれない。しかし他の当たり前の事はおこたっていないか。ちゃんと相手の手の予測は出来ているか。相手はおりてくれるだろうか。その辺の状況を当たり前に予測するという事、そうするとここでリーチする事が本当に得な事かどうかが見えてくる。


 あまり得では無いと判断したら、これはもうしばらくダマテンで押し通し、相手がリーチなどかけてきたらオリてしまうのが当たり前である。当たり前なのだが、この当たり前は決して初心者には出来ない。


 こういう事を我慢というが、我慢してもこれを「我慢」という範疇で捉えている内は中級者、これが「我慢」ですら無く、当たり前と捉えるのが上級者の心構えというものである。なんせこうした方が結局は得なのだ。何が我慢であろうか、てなもんである。


 安易な思考では本当の得は見極められない。得が解れば我慢は我慢ですら無い。努力は努力でない。「当たり前」の事である。もちろんそれが良い結果に結びつくとは限らない。しかし当たり前の事を見極め当たり前に行う事、このことそのものが、面白いのだ。ほら格言っぽくまとめられた。