可能性

あらゆる体験には、あらゆる独特の感情が、また人それぞれに立ち上がるものなのだろうか?


例えば、ラジコンカーに新聞紙を投げ付けた時の感情。


例えば、お猿の電車にラグビーボール一つだけを乗せて、それを独りで遠くから見ている時の感情。


例えば、週刊誌の田村亮子選手の記事を破り取り、そのページを噛んでいたガムでペタリと部屋の壁に荒々しく貼り付けた時の感情。


例えば、日曜日の午後2時、独りきりの部屋で、近藤真彦の「情熱熱風せれなーで」を、他の行為は一切何もせずに集中して、かつエンドレスリピートで聴いている時の感情。


あらゆるシュールな行為毎に、個人毎に、それぞれ立ち上がる感情がある。
この無駄に無限の可能性をどう解釈するべきだろうか?


(というか、感情って何?)




あらゆる無駄で無限な可能性を、合理性や経済が駆逐するのだろうか?


となると、つまり、無駄=可能性だとか広がりだとか。単純に考えるとそういう事になる。これは一つのヒントとなるのではないだろうか。