その02・概要

〜前回の続き〜
 MIDIについて書くならば長ったらしい概要が必要になってきます。自分の中では・・・


 MIDIデータは様々な手段で作成出来ます。一番手っ取り早いのは楽器が弾ける人ならば自分で演奏してしまう事で、で演奏した後に様々な編集を加える事が出来るというわけです。要は従来の音楽が演奏した音をレコーダーに録る「録音」であるとするならば、MIDIとは演奏データを録る「録データ」であるといえます。演奏情報をデジタル化して数値化してファイル化するわけです。


 それは例えるならば、計算、というものがソロバン(超アナログ)から電卓(計算は機械が行うがファイル化出来ないという点で、半アナログ)そしてコンピューター(デジタル)になったのと同じような変化です。すなわちMIDIというものは何も専門的用語でも知識でも何でもなく、単に「音楽表現のデジタル化」の規格と言う事が出来ると思います。


 デジタルのメリットは、いつでもデータを読み出せ修正が容易でコピーペースト自由、というような編集のやり易さにあります。人間とは忘れてしまう生き物であり、全く同じ事は2度出来ないという生き物であり、コンピューターは決して忘れない無機物であり、全く同じ事しか出来ない無機物であり、そんなお互いの長所を享受し合う事で、人間もコンピューターもより新たな表現の地平へ駆け出して行けるというわけです。なんて真顔でボケながら行きます。


 しかし音楽の魅力とは元来、生演奏が生み出す調和もしくはズレ、そんな決して数値では表せない演奏者達それぞれの演奏が複雑に絡み合いもつれ合い一人一人の一人で出せるものの限度を有限から無限にしそんなアンサンブルは1+1=2に非ず、ならば3?否、5?否、10?否、、、∞!!!!!!!


 ・・(クールダウン)・・というような部分にあったと思いますし、もちろん今でも変わりありません。そういう観点から見たらMIDIなんていうデジタル規格は陳腐なものでしかありませんし、そういう陳腐なシーンも実際存在しています。結局そういうものは捉え方が陳腐なのであって、人間とコンピューターの長所を享受し合ってより新たな表現の地平へ駆け出して行けてないという事なわけです。


 ではどうやって人間とコンピューターの長所を享受し合ってより新たな表現の地平へ駆け出して行こうかと言いますと、まあ子供でも解る簡単な発想がその答えにふさわしく、要は機械に人間では出来ない様な演奏をさせよう、というわけです。その音色ももちろん機械が作りだし発生させます。こんな機械音楽の事を「テクノミュージック」と言う、と自分は「テクノ」をこう定義します。まとめて言うならば、「人間とコンピューターの長所を享受し合ってより新たな表現の地平へ駆け出して行こう、とせん音楽=テクノ」であると。


 それはデジタル時代の標語でもあります。人間とコンピューターという二核、1億2000万人総デジタル化時代の直前に生を受け、人間とコンピューターという二核、1億2000万人総デジタル化時代に育ち、人間とコンピューターという二核、1億2000万人総デジタル化時代について考えた自分は、あらゆる音楽を愛しておりますが、このテクノミュージックだけは何か特別のものとして自分の核となっていました、いつの間にやら。


 まあもちろんMIDIは全て機械に演奏させる為のみに有効であるわけでは無く、ビートがデジタル・演奏がアナログで人間とコンピューターの長所を享受し合ってより新たな表現の地平へ駆け出して行ってる音楽なんかもあり、これこそ人間とコンピューターの長所を享受し合ってより新たな表現の地平へ駆け出して行った最もたる姿と言えるかもしれません。ドラムマシンのビートと音に合わせファンクな演奏を奏でるスライ&ザファミリーストーンや、ドラムマシンとスクラッチのみでラップするラッパー、こんな黒人ならではのプリミティブな機械とのつきあい方というのは異常に格好良いものです。


 しかしやはりその際の機械の使われ方は限定的なものであり、MIDIなる演奏情報デジタル化の力を最大限に使用していません。別に最大限に使用する必要は無いのですが、最大限な使用をして魅力を放つ音楽はやはりテクノミュージックであると言えます。しかしMIDI。たかがMIDI、されどMIDI、誰もが必ずはまる大きな落とし穴があるのです。それは・・・


 機械のビートと機械の音には、前回も書いたようにフェティッシュな感触が相当含まれており、そのフェチ感覚、馬鹿みたいに繰り返されるビートや音の断片、耳を素通りして直接脳にくる剥き出しの電子音、異常なパンニングやスピーカーに悪影響な高域低域やなんかその他もろもろ、それらは中毒性が強く、それらの音をずっと聴いていると「音楽」という枠からはずれて「音」になってしまって、表現という行為から逸脱、その音群は決して作品としてまとめられたりはしない、という、そんな領域があり、ここ止まりのテクノジャンキーというのは大変多いのではないかと自分は推測します。


 あくまで表現に向かうべき、とは常に必ずしも言えないかもしれませんが、その怪しくも魅力的な中毒的モチーフをなんらかの形にしたら素晴らしいんじゃないか君、とは必ずしも言いたくはあります。そして同時に心中では、人間とコンピューターの長所を享受し合ってより新たな表現の地平へ駆け出して行こうぜ、と。
〜以降へ続く〜