名も無き孤児達の墓

名もなき孤児たちの墓

名もなき孤児たちの墓

こないだ実家で雑誌「文芸」の中原昌也が表紙の号を発見し、自分内でちょっとした中原昌也ブームだった。
図書館に行ったら「名も無き孤児達の墓」という本があった。
2004年から2005年にかけて書かれた短編を集めた短編集なのだが、これが実に素晴らしい。
フレーズ一言一言にいちいち笑いがこみあげてくる。
練り上げられたフレーズの面白さと、どうでも良い・何も無い事象に対する執拗で緻密な描写。
基本的には全てがその組み合わせで、話の内容は二の次三の次になっているという事それ自体までもが笑いを誘う。


自分などははっきり言って本が読めないタチであり、
それは、本というもの、文章を読んで頭に自分なりの情景描写を描かなければならないものであり、
その描写に忙しくて、話の筋を追う気など失せてしまうという事が大きいのではないか、と。
そして時に腹がたつのは、まず自分勝手に描いた脳内の情景描写を、後から覆されるという事。
そして正確な情景描写が求められる場合というものが常にあること、さけられない事。
そもそもそれは文章じゃない方がいいんじゃないの?っていう。
そういうのはつまらない。疲れる。間違ってる。


その点中原昌也の小説は情景描写それ自体で笑いを誘う、
すなわち情景描写する事自体に重きをおいているため、読んでいて非情に楽しい。
例えば子供の頃読んだアラビアンナイトのような、イメージのみでも十分面白いっていう事が文章の本質なのではなかろうかと。
イメージの勝手な描写それ自体こそが読書というものの最上の喜びであると、僕は思う。
そして中原昌也の描く世界は、大人にとって最も楽しい、ある種の絶望感と同時にあるユーモア、
そういった情景で満たされている、「アダルトおとぎ話」とでもいうようなものなのではないかと。
とにかく何の無理も無くこんなに楽しく読める本というものは、そう無い。


まあ、本をまるで読めないといっても過言では無い自分には読書の何がわかるわけでもないが、
わからない人間にとっては、最良の文章の連なり。
筆者の名が最初に知れ渡ったのは音楽界なのだが、この文章自体がやはり音楽的なのかもしれない。
何も無いところでの個々のイメージに頼った情景描写、適当といえば実に適当で、特に何も訴えない所とか。
自分はそういう抽象的で自由な表現が好きだなあ、という事がまた少し明確になった。