心の解法

おもしろき事も無き世を面白く 住みなすものは心なりけり
まず、世の中とは壮大なムダであるという事が大前提。
幸福も、不幸も、どうだって良い。
運命の女神にほほえまれようと、裏切られようと、
ものすごい偶然に何かを感じても、異常なまでのシンクロニシティに遭遇しようと、
いずれにしろ、意味がない。というか、
意味があろうとなかろうと、別にどうでも良い。
この世界全て、壮大な宇宙全て、壮大なムダでしかない。
ただ、流動する砂の様なものである。
ここは、今読んでいる、安部公房砂の女の影響。
何の意味もない、単なる流動。


その中にあって、生きるという事は、心が全て。
心こそが、実体。在るという全ては、心である。
ゆえに心こそはオリジナルであろうと、誰もが必死で、もがいてでも、
オリジナルな心を持つべきだ。
部分部分を共有し合いながら、その部分要素の構成で、オリジナルな心を作り上げるべきだ。
しかし、共有という事を履き違えている輩が多いという事に気付かされる。
部分でなく、全体で共有しがちなように見受けられる。
皆がこう言ってるから、こうなんだろう、と、右倣えな心。
皆で作り上げている、共有の価値観。流されている心。
そんな心でそもそも幸福を感じられるわけが無い。
世界のみならず、心までがムダそのものになってしまっているのでは、正に救いようが無い。


また、オリジナルな心であっても、絶えず飢えていて、欲しがる、がっついている心というのもあり。
心が小さければ、小さい器に盛り、満たすべき。
器の小ささを恥じ入る必要がどこにあろうか!
小さく、満たされている。それは素晴らしき事ではないか。
オリジナルな心を満たす、それぞれのオリジナルなささやかな器、
それは行為、そしてその結果、というものであろう。
良き心も、器無くして、保てず。
良き器あれど、良き心少なくして、満たされず虚多し。
良き心の為の良き器。良き器を満たす良き心。
大きさなんて気にするな。小さくたって全然構わない。
満足してくれ。